■ 第一話 ふたたびアルジェリアへ1 ふたたびアルジェリアへ2 ふたたびアルジェリアへ3 ■ 第二話 アルジェリア人との再会そして授業1 アルジェリア人との再会そして授業2 アルジェリア人との再会そして授業3 アルジェリア人との再会そして授業4 アルジェリア人との再会そして授業5 ■ 第三話 同じ国の別世界1 同じ国の別世界2 ■ 第四話 テストテストまたテスト ■ 第五話 帰された講師たち1 帰された講師たち2 帰された講師たち3 ■ 第六話 同居者・ギニア人講師ヤイ1 同居者・ギニア人講師ヤイ2 ■ 第七話 『ん』で名が始まる同僚 ■ 第八話 アルジェリア人医師 ■ 第九話 アミエルと家族 ■ 第十話 ジャン・ジャックとヤエル ■ 第十一話 アルズーの一家 ■ 第十二話 マックス・ガリッグ、私を変えた人 ☆彼のエピソードその1 ☆その2魔術師 ☆その3キュラソー ☆その4コンビナートの泥棒 ■ 第十三話 マックスの愛犬サム ■ 第十四話 日本人宿舎(塀の中の人々) 日本人宿舎(塀の中の人々)2 ■ 第十五話 断食月・ラマダン迫る ■ 第十六話 えっ!ひと月の休暇? ■ 第十七話 ロンドンの三日間 ■ 第十八話 ポーからの出発 ■ 第十九話 モロッコ入国できず1 モロッコ入国できず2 モロッコ入国できず3 ■ 第二十話 最後の試み 最後の試み2 ■ 第二十一話 ポーからの旅路1 ポーからの旅路2 ポーからの旅路3 ポーからの旅路4 ポーからの旅路5 ■ 第二十二話 アルジェリア再び ■ 第二十三話 引越、また引越、そしてオランへ ■ 第二十四話 車荒らしと通勤ルートの怪1 車荒らしと通勤ルートの怪2 ■ 第二十五話 マラソン大会のインチキ ■ 第二十六話 アルジェリアの女たち ■ 第二十七話 家政婦「ゾラ」 ■ 第二十八話 異文化経験1 異文化経験2 ■ 第二十九話 再び授業へ ☆生徒にゼロだと罵られる ☆工場見学 ■ 第三十話 特徴的クラス ■ 第三十一話 ある生徒の招待1 ある生徒の招待2 ■ 第三十二話 石油化学工場の試運転1 石油化学工場の試運転2 石油化学工場の試運転3 石油化学工場の試運転4 ■ 第三十三話 胃潰瘍か ■ 第三十四話 フランスの食卓1 フランスの食卓2 ■ 第三十五話 フランス語マスターの道 ■ 第三十六話 休暇、東ベルリンへ1 休暇、東ベルリンへ2 ■ 第三十七話 クリスマス休暇 ■ 第三十八話 オランダ人重役、ドルフ ■ 第三十九話 飛行場物語1 飛行場物語2 ■ 第四十話 日本人通訳 ■ 第四十一話 初めての旅ビスクラ1 初めての旅ビスクラ2 --------- 【番外編一】ヒッチハイクの旅1 ヒッチハイクの旅2 【番外編二】ホテルに無理やり・・・ 【番外編三】会うは別れのはじめ 【番外編四】一期一会 【番外編五】ローラン1 ローラン2 ローラン3 --------- ■ 第四十二話 千キロのヒッチハイク ■ 第四十三話 スペイン領メリリヤの旅 ■ 第四十四話 最後の授業 ■ 第四十五話 別れの船旅1 別れの船旅2 ■ 第四十六話 終わりに 江田すずめ氏の絵によるエッセー漫画編 ●「パリの公衆浴場」 ● 「パンドラの箱!?」 ●「ある日の授業」 ●「トップ.シークレット」 ●「露出狂生徒」 ●「契約交渉」 ●「そんなアホな1」 ●「そんなアホな2」 ●「ガリッグの努力」 ●「ポンプ」 ●「こんな生徒には」 ●「ゲテモノ食い」 ●「引っ越しパーティ」 ●「同僚ヤイ」
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講師はほとんどフランス人だったが、ベルギー人3人、イタリア系とベトナム系フランス人、スイス人、ギニア人、アルジェリア人がそれぞれ1人、日本人も私が1人だった。三ヶ月に一度来る重役のオランダ人、ドルフ・スネットラーグがそれに加わる。 講師、責任者、総務担当者と、皆強烈な個性で自己主張をしていた。皆、自分がいかに重要な人間で尊敬されるべき存在であるかを常に意識していた。授業と自習の監督が終わり、職員室に戻ると皆くたくたで、終業までの1時間は静かに休むか、残務整理というところだが、いつも誰かが喋っている。 単なる雑談ではなく、情報交換という名の自己主張である。演説さえする者もいる。 いちばん喋るのは話好きのモーリスだ。ザイール人女性と結婚していることから、人種偏見は一番なさそうに思えたが、実際は逆で、彼ほどアルジェリア人の悪口を言う者はいない。 ある時はアルズーに、この中では自分しか知らない酒屋があって、そこのワインはアルジェリアでも逸品だとか、あるクラスの生徒はアルジェリア側のスパイで、そいつを手なずけたとか、我々にいつも敵対していたアルジェリア人検査官がいたが、いつか交通事故を装って合法的に抹殺してやるとか、そんなたぐいの自慢話や物騒な話がほとんどである。 ある日、彼がガリッグ宅のパーティーの席で珍しくがらがら声で話すので、どうしたのだと訊いたら、 風邪だという。すかさずからかった。 「へーそうかい、いや、てっきり喋りすぎて喉を枯らしたのだと思ったよ」 一同爆笑し、かれは参ったという顔で私に握手を求めてきた。 私と共にパリで講習を受けた中に、大柄なベルギー人計装技師がいた。 私と私の同居者が彼等の隣に引っ越したとき、そこからまた宿舎に戻った二人組の一人だ。 職員室はまだ雑然としていて、皆思い思いに座っていた。ある日授業から戻ると、彼はすぐ後に私の席を指しそこは自分の席だと言う。どこが誰の席なんて決まってないよ、と言うと、いやそうじゃない、そこはいつも俺が座っていると言い張り、私が座っている椅子を強引に取り上げた。 冗談はやめてくれといったが、彼は本気だった。とにかく力ずくでとうとう取られてしまった。 私の中で怒りがこみ上げた。自分の居場所が、そして存在が否定されたような気がした。 彼は私の倍ほどの体格である。しかしそんなことは気にならない。 猛然と力ずくで椅子を取り返しにいった。 七割方取り返したとき、皆が割って入った。別の者が彼にほかの椅子をすすめ、それで一段落した。 その間わずか1、2分のことである。ささいなことであったが、この事件で皆の私を見る目が変わった。 空手や柔道の真似事さえしたことはないが、皆の中に、私の存在感が出てきたような気がした。 ムッシュー・ガリッグもあとで私に言った。 「おまえさんを守るため何かしようと思ったが、それ以上にうまくやったよ。あれで良いのだ」 その後も、毎朝の挨拶は皆と同じようにベルギー人とも毎日行った。その度に私は笑顔で手を差し出し、彼の目をじっと見る。彼は、私から目をそらしながらも一応握手を返す。 数週間後、彼は帰国したが、その日までこれは続いた。その度に彼は言い様のないうしろめたさを感じているように見えた。 ひょろりとしたトーゴ人エンジニアがやってきたのもその頃だった。 同じアフリカ人ということで、私と同居していた同僚のギニア人、ヤイとはすぐ親しくなって、私たちのアパートに入り浸るようになった。彼はいつも不平不満を言っていた。 自分は名誉アメリカ市民の称号をもらっている、尊敬されるべき人間であり、ここにいるべきではなく、フランスに残してきた仕事があるなどと常に言っていた。何が不満なのか、そしてそんなに不満だったらなぜここに来たのかよく分からない。「帰ったら?」と言いたくなる。 彼は交渉を有利に持っていくため、自分の価値を高く見せようとしているとすれば、ここに来る前も契約書へサインをしているのに、何の得にもならない。社会を知らず、学業成績のみが人生の価値で、それを鼻にかけている感じである。しかしこの仕事には、最先端の知識やエリートは必要ない。 ムッシュー・ガリッグも、あいつは気違いだ、相手にするなといっていた。 私の同居者ヤイもだんだんいやになって話すのが億劫になってきたのか、彼の相手よりも友達のところに遊びに行くようになり、その頃になると二回に一回は私もついていった。 ある日、昼食時に彼が契約担当者と話しているのを見た。相変わらず不満たらたらで、自分はほかでやるべき大事なことがある、といつもの調子である。担当者はそれに答え、 「ここでの契約と仕事以上に大事な何があると言うんだね。 まあゆっくり考えてみたまえ」 といって結局相手にしなかった。それから何週間もせず、フランスに帰国したように思う。 ある日突然いなくなり、訊ねても、帰されたか帰ったかよく分からない。その頃は他人を気にしていられないほど、入れ替わり立ち替わり講師が来ては去った。 その頃やってきた中にフランス人のある典型と言える電気技師、ムッシュー・ニオがいた。 四十前後で頭の真ん中が禿げ、話し方は普通だが、外国人を極端に警戒し、自分と同じフランス人しか相手にしない。たぶんフランスから出たのはこれが初めてだろう。まして日本人やアルジェリア人と仕事をするのも経験がないに違いない。結局彼が最後までこの現場に残るが、その頃はとにかく、外国人には疑心暗鬼の固まりといってよかった。 ある日、彼は隣の誰かと話をしていて、鉛筆を落とした。「落ちたよ」という私の言葉に、彼は一瞬聞いていないふりをした。そしていかにも俺はあんたの言うことなんか聞いていないよ、といった仕種で、しかしゆっくり下を見た。そこに鉛筆を見つけ、やおら拾い上げると、ありがとうも言わずまた話を続けた。 その後彼は少しずつ性格が開放的になっていく。彼ほど劇的に変化した人はいなかった。 日本人の場合、言葉の問題もあって、彼らアルジェリア人とは付き合わないしましてや、彼らに影響されることはない。フランス人の場合、初めはどうして自分がこんなところに来たんだろうといった一種の嘆きに近い気持ちを抱く者が多い。 着いたその日から、フランスの自慢、アルジェリアの悪口が始まる。次にあれがない、これがないと不平不満の連続である。逆にフランスになく、ここにあるものは恩恵とは考えていない。 それがひと月もすると慣れ、少し落ち着き、三ヶ月目くらいには生活に慣れ、やがてまんざらでもないと思い始める。相変わらず愚痴はでるが、そう悪くなさそうな雰囲気が伝わる。半年や一年も過ぎそろそろ帰国の頃になると、逆にまだ居たくなる。特に女性にその傾向が見られた。 帰国の時に、激しく泣いたフランス人女性もいたらしい。隣近所とうまく付き合っていた人であれば、別れの寂しさ悲しさは良く分かる。それにアルジェリア自体当時は住み易かった。 残念ながら、ほとんどの日本人はそうはいかない。 規則と管理に縛られ、仕事に追われ、生活を楽しむ余裕などない。 【編集後記】 まだエンジニアリング会社にいた頃の自分の感覚でものごとを考えておりました。 そこではスーパーゼネコンも世界に名だたる巨大メーカーもぜ〜んぶ全部が下請けのひとくくりでした。 きっと今でもそれは続いている事でしょう。そして自社の中ではいろんな設計部署の中でもベーシックデザインを担当する「プロセス設計部」が他の部署を下請けのように使ってことでしょう。 しかしストレスも多いようで、毎回飲み会の最後にはコップや茶碗、箸が飛び交い会社の会議室は「プロセス設計部は使用禁止!」と言われるまで荒れに荒れていたものでした。はなしは横道にそれてしまいましたがいずれその話はたっぷりと・・・ |